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2018.6.16

失楽園

失楽園

当時、話題になっていた失楽園。不倫の代名詞になっていて、子どものころ、大人はみんな失楽園しているのだと思っていたよ。黒木瞳は日本アカデミー賞主演女優賞を受賞。

失楽園の映画情報

原題
制作年 1997年 制作国 日本
上映時間 117分 ジャンル ロマンス
映倫 R15+
監督 森田芳光
キャスト

役所広司
黒木瞳
寺尾聰
柴俊夫
中村敦夫

失楽園のネタバレを含む場合があります

以下「失楽園」の感想・評価・レビューの内容は、ネタバレを含む場合があります。
失楽園」をまだご覧になられていない方は、十分にご注意ください。

失楽園のあらすじ・ストーリー

あるとき、カルチャースクールの書道講師である凛子(黒木瞳)と出会った久木(役所広司)。
ふたりは恋に落ち、互いに家庭がある身だが食事や旅行を重ね、不倫関係になっていた。
やがて、ふたりの関係はさらに燃え上がり、片時も離れられない気持ちになってしまったが…。

失楽園の予告動画または関連動画

失楽園をみた記録

公開されたあと数年経って学生のころにみたのだけど案の定途中でリタイアしていた。1997年、まだまだあたしには刺激が強かったしポップな映画ではないものね。

今でこそ不倫はいけないこととされてるけど、昔はだれもが不倫していたでしょ?あたしの記憶だと、不倫はわるいことだけれどしかたないこと、というものだった気がする。もちろんめちゃくちゃになった家庭は多いだろうけど、夫の不倫を黙認せざるをえない家庭のほうがはるかに多かっただろう。夫がとても強い最後の時代でもあったからだろうか。まさにそんな時代背景がこの失楽園のはずで、だからか不倫カップルはとてもタッチが軽い。ふたりの奥深くのハートは燃え盛っているのだろうけれど、友だちや家族に知られても傷は浅く、あの時代のとおり、男なんて不倫のひとつやふたつあるもの、だらしのないスケベなひとね、と陰口たたかれる程度。時代だなぁ〜とおもったのだど、その割にはあのラスト。家族にバレてしまっても焦らずいられる図太さがあるなら、わざわざ死を選ばなくてもよかったじゃないか!バレようがやめないし、不倫はたいがいどこでもしていることでしょう的な時代に、わざわざわざわざ地獄の門をくぐろうとするのは説得力がないだろう。

しちゃいけないことをしているときほど燃え上がる気持ちはよくわかる。もうなにも見えないくらい、他がどうなってもいいくらい、きょうが最後の日でもいいとおもうくらい、我を忘れて愛に浸れる。あなたといっしょにいればなにも怖くない、あなたといっしょだと強くなれる。昔から歌の歌詞にもよくある、使い古された言葉だけどその気持ちはあたしなりによくわかる。そんな気持ちになるくらいひとを好きになれるのはしあわせなことだ。愛しているひとに愛されてこそだけども。それなのに全体的にリアリティーに欠けていて、女性として感情移入はむつかしかった。愛する気持ちはよくわかるのに、凛子たちのような選択がまったく理解できないからね。さらに久木と凛子はどちらかというと富裕層側でそれもまた同情できなかった理由かもしれない。

そしてなにより、子どもがいる久木が家族のことを一切心配しないあたりは不信。凛子のほうは子どもがいたら話にならなかっただろうから、子どものいない夫婦の設定なのはいいとして、久木のほうは子どもが巣立ったあとだからか家族のことはもはやただ生活するためだけの場所になっていたのか。ずいぶんと薄情者というか、人間味を感じない男だ。そう、ふたりのいいように事が進んでいって、これからふたりで新しい未来を築くことができそうだった。にも関わらず、わざわざわざわざわざわざ永遠にひとつになることを選ぶのだ。こんなに不倫関係をうまく卒業して、はれて夫婦にでもなれそうな絆と身辺の処理にそこまで苦労しなくて済みそうな環境だったのに!

ふたりの最後をみると、つまりずっとひとつでいたかったという、欲望のままに動物のようにすごした関係がたのしかっただけだったのではないか。あと半年、一年関係を続けていたら冷静に考えられるようなフェーズに向かえたのではないか。あまりにも感情だけが先走って、恋人がはじめてできた学生のような、なんとも幼稚だったのではないか、とおもってしまった。

死ぬほど惚れている相手とどうしたいか、と問われたら、あたしだったら生きて彼の愛を感じていたいほうを選択するのだけど。共感できるところ、できないところの差がとても激しくて、そしてやっぱり常識とはかけはなれていて腑に落ちないことが多く疑問が残るばかりだった。

もうひとつ、あまりにも子どもが不憫だということも残しておこう。知らない女とくっついたまま心中だなんて死ぬまで情けない気持ちを背負っていく羽目になりそうだ。父としての責任はもう果たしたのだろうけれど、それだけはしてはいけないだろう、という死に方だと思います。